【占星術×映画評】ドイツ映画「真夜中のゆりかご」からみる、私たちの「影」【プライムビデオ】

つい先日、「映画「ルーム ROOM」からひも解く、自分の心の安定を得られる場所とは」という記事を書きました。
映画評にちょっと占星術のエッセンスを加えて解説してみようというこの試み。
今回もAmazonプライム・ビデオで視聴した、2014年公開(日本では2015年)のドイツ映画「真夜中のゆりかご
(En chance til)」のレビューを書いてみたいと思います。
ちなみにこの映画、ドイツ映画だからかハリウッドとは違う独特の暗さがあるんですよね。硬質な空気感と言うか。私は好きな雰囲気でした。
映画「真夜中のゆりかご(En chance til)」のざっくりとしたあらすじ
sponsored links
この映画のキーパーソンとなるのが、二組のカップル、そしてそれぞれのカップルの間に生まれたふたりの赤ちゃん。
主人公は刑事のアンドレアス。妻のアナと幼い息子アレクサンダーがいて、素敵な海沿いの家に暮らす絵にかいたような幸せ家族。
ただ息子のアレクサンダーの夜泣きによって寝不足になる日も。
ある日アンドレアスは通報を受け、とあるカップルの元を訪れます。そこにいたのは前科者のジャンキー、トリスタン。そしてパートナーのサネ。ふたりの間にはソーフスという名の赤ちゃんがいますが、ろくに世話もせず糞尿まみれで放っておいている始末。
同じ年頃の息子を持つアンドレアスは見かねてソーフスの身体を洗ってあげて、同僚や上司に「保護すべきだ」と主張します。トリスタンはパートナーのサネにもDVを繰り返しており、サネが子供の面倒をみようとすると暴力で邪魔をするのです。
一見すると対象的な二組のカップル。
しかし、ある夜にアンドレアスとアナの息子アレクサンダーが急死。アナは錯乱し警察にも病院にも届けるなと泣きわめく始末。
動揺したアンドレアスは、アンドレアスの死体を抱えてトリスタンとサネの家に向かうのですが…。
人は相手に自分の影をみつける
sponsored links
この映画「真夜中のゆりかご(En chance til)」は、人の二面性や物事の裏表を二組のカップルの対比で表しています。
明らかにまともで社会的にも成功している幸せカップルと、堕落し子供の世話もろくにみることができないジャンキーのカップル。
しかし主人公アンドレアスの子ども、アレクサンダーの死により正義と悪の均衡はもろくも崩れ去ります。
正義と常識、悪と非常識は紙一重だということを思い知らされるのです。
ここから少々ネタバレの話。
動揺した主人公アンドレアスはトリスタンとサネの家に忍び込み、ふたりが寝ている隙に自分の息子の遺体と、糞尿まみれでバスルームに放置されて泣いている赤ちゃんソーフスを取り変えてしまいます。
アンドレアスのこの行為は常識的に考えたら「悪」です。犯罪です。
でも彼は「虐待に近い状態で扱われているソーフスを自分が面倒みるのだから、ソーフスにとってもこの方がよいのだ」と自分の行為を無理やり正当化するんですね。
正義、そして悪の定義がわからなくなってくるんです。
それもそのはず。どんな人でも必ず2つの顔をもっていますから。
占星術では月が素顔、太陽が社会の中で見せる顔とされています。
太陽の光によって月が消えたり現れたりするように、社会や外界、他者との関わりの中で自分の秘めている素顔も見え隠れするというわけです。
心理学者のユングによると、人は常にどちらの顔も同時にみせる事はできず、常にどちらか片方を抑えているそう。
そして影となって潜んでいる「自分では認識できない自分」の面は、「他人」という鏡のなかに見つけるのです。
あの人、なんかむかつく。生理的に受け付けない。そんな人は、実はあなたの抱えている「影」そのものなのかもしれません。
映画「真夜中のゆりかご(En chance til)」のみどころはここだ!
刑事なのに子どもを取り変えて、いつバレるの?どうなっちゃうの??実の息子の死体はどうなったの?とドキドキハラハラしながら観ていくわけですが。
映画の割と最後の方、死んだ息子アレクサンダーの検死結果を知るところが、この映画の最大のヤマではないかと思う。
思わず「えっ」って声出ちゃいましたもん。
そんな展開?まじすか?みたいな。
まさに「人間の裏表」を表すエピソードの象徴なんですよ。
いったい息子の死に何があったのか。それは観てからのお楽しみということで…。